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イスラム教と偶像崇拝 イスラム教の特徴といえば「偶像崇拝否定」という言葉が返ってくるぐらいイスラム教と偶像崇拝の関係は有名です。 「神は人の手で作られるものではない」という教えもとづいているのですが、イスラム教以前のメッカ部族ごとの偶像崇拝が行われていたようです。 これら偶像のなかには外来のものもあったようですが、それぞれが独自な祈りの対象をもっていたようです。イスラム教がこのような偶像崇拝を完全に禁止したのは、人と神との関係を明確に切り離したからであると思われます。 イスラム教に反対したメッカの商人と偶像崇拝の関係を切り離し、メッカの社会基盤を破壊することが目的であったのかも知れません。 いずれにしても、人間の手で作られる像は神ではないという考えは、イスラム教の大きな特徴となったのです。 皆さんもご存知のところでいうと、『バーミヤンの仏像』。 これにより、タリバン政権は他のイスラム教徒たちからも非難の声を浴びたそうです。 ライラ・トル・カドルと三日月の国旗 イスラム教国の旗には三日月がよく描かれています。 三日月は下弦の月で満月から新月にいたる時で陰暦の22日から23日頃に当たるようです。預言者ムハンマドがヒーラーの洞窟で、最初のクラーンが降りたのがラマダン月(断食月)のこの日でした。 そのためこの夜を「みいつの夜」といい、断食月において一番重要な日とされています。アラビア語でこの夜のことをライラ・トル・カドル」といいますが、「カドル」とは偉力・神命・運命を表す言葉です。 イスラム教の礼拝所の屋根の上には、この月を模した避雷針のようなものが立っているのは、最初の啓示を記念しているものです。 アラブ人の名前が長い理由 よくアラブ人の名前が長いということを耳にする人もいるでしょう。 預言者のムハンマドも正式名は、『ムハンマド・ブン。アブドゥ・ル・ラー・ブン・アブド・ル・ムッタリブ・ブン・ハーシム・アル・クライシュ』ととてつもなく長いのです。 なぜにこんなにも名前が長いのか? このムハンマドの名前を日本語に訳してみるとその答えは簡単にわかります。 『クライシュ部族のハシームの息子であるアブド・ル・ムッタリブ、その息子であるアブドゥ・ル・ラー、その息子ムハンマド』 そう。名前のなかに家計図が入っているのです。 アラブ人は部族や親類など、連帯感が高いためこのように長い名前になってしまうのです。 ムハンマドが会った八人の預言者 預言者の伝承によると「昇天」で、ムハンマドが会った預言者は次の八人です。 ・アダム=聖書で最初の人類として伝えられるアダムとイブのアダム ・ヤーヒヤ=パプテスマ(洗礼者)のヨハネ。サロメの要求によりヘロデ王に首を切られた物語は有名 ・イーサ=ユダヤの子として生まれキリスト教の預言者となったイエス・キリスト ・ユーセフ=イスラエルの民の祖ヤーコブの十二人の息子の十一人目。旧約聖書の創世記にも彼に関する話がたくさん記されている ・イスハーク=アブラハムの子として旧約聖書ではイサクとして登場する預言者 ・ハールーン=旧約聖書ではアロンという名で登場する人物で出エジプトで名高い預言者モーゼの兄 ・ムーサ=出エジプトの指導者で十戒の受領者である預言者モーゼ ・イブラハーム=ユダヤの民の祖アブラハム。すべてはこの人から始まる。 アラブ・イスラムにより滅亡した二大帝国 (1)ペルシャ帝国 紀元前612年、アッシリア帝国を滅ぼしたメディア王国のイラン高原支配が、紀元前550年、インド・ヨーロッパ語系に属するペルシャ人の手に握られ、西アジアの統一国家としてペルシャ帝国が歴史上に登場しますが、紀元前330年アレキサンダー大王により滅ぼされます。この帝国はアケメネス朝ペルシャ帝国と呼ばれました。 しかしその後ローマ帝国の分裂に乗じて、再びこの地にイラン系農耕民族によるペルシャ帝国が生まれます。これをサザン朝ペルシャ帝国と呼び西暦226年に誕生し、イスラム軍により651年滅亡します。 ゾロアスター教を国教として中央集権的支配体制を確立、国王は自らを「王の中の王」と称しました。このペルシャ帝国の特徴は西洋と東洋の接点を具備した文化を花咲かせました。その発展はさまざまな文化に及び、華麗にして優美な文化を作り上げました。またゾロアスター教という宗教は、いわゆる宗教学なるものを作り上げ、イスラム宗教学の成立に大きな指導力を発揮しました。まさにイスラム教黎明期における第一の大国でした。 (2)ビザンチン帝国 ローマ帝国が東西に分裂をしたのは西暦395年のことですがその前の西暦330年、ローマ帝国のコンスタンチ皇帝の時代に、首都は当時ビザンチンというわれ、現在のコンスタンチノーブルに遷都しました。この時代を特にビザンチン帝国時代と呼びますが、ローマ帝国分裂後は正式に東ローマ帝国と呼ばれます。 この帝国は1299年に成立したオスマン・トルコ帝国により1453年滅ぼされるまで続きますが、614年から642年にかけていわゆる三日月地帯からアラブ・イスラム教徒により追い払われます。 この東ローマ帝国は東方キリスト教世界、ヘレニズム世界などの多様な文化を持ち、特にギリシャ哲学はイスラム宗教学の完成に大きな影響を与えました。 現在もイスラム宗教学を専攻する学生はギリシャ語が必須科目となっていることをみてもそれが証明されます。ギリシャ哲学、とりわけアリストテレス論理学は東方キリスト教やイスラム教を学ぶのに必要な学問とされています。アラブ・イスラム教徒が三日月地帯に入ったとき、先住民がアラビア語とギリシャ語、ペルシャ語の相互翻訳を行い、アラビア語に訳されたギリシャ文化が後にヨーロッパ・ルネッサンスに大きな影響を及ぼしたといわれます。 ちなみにギリシャ哲学を専攻する学生は、アラビア語の修得が必要とされています。これをみてもビザンチン文化の与えた影響は大きいといえるでしょう。
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